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2016年01月15日(金)

紀野一義先生の思い出

 「日蓮 配流の道」 日本の旅人4 淡交社、1973年刊

 
昨年は10月11月と、僧侶の先輩の訃報が続きました。
その時にも書いたのですが、僧侶としての基礎訓練を受けるために、
山梨県にある日蓮宗の総本山、身延山久遠寺に一年間お世話になったことがありました。
今から37年前、昭和54年の事でした。
 
当時身延教報社という本屋の店先で何気なく手にとった一冊がこの本でした。
 
紀野先生ご本人とその後お近づきになれるなどとは、その時は夢にも思わず、
とにかく、読みやすさと写真の美しさに惹かれて買ったのでした。
しかし、内容で驚いた点は厳しい佐渡での配流の生活の事でした。
 
 
「日蓮の歩いたあとを歩こうと志す者は、春や夏のおだやかな日本海を渡ってはなるまい。
その季節の海は鏡のように凪いで、死んだも同然である。
そんな海を越えていったのでは、日蓮の苦難はまったくわからぬであろう。
冬の狂瀾怒涛、あのどす黒い凶暴な海を渡り、雪の峠を越え、風雪の荒れ狂う原野を凍えながら歩いてはじめて佐渡の日蓮に会うことが出来るのである。」
 
紀野先生のような、こういうスタンスで物事を捉えるという事が大切な事です。本だけ読んで頭で理解した事なんかでは、真実はつかみ取れません。
 
今こうして自分が日蓮宗の僧侶として37年を過ごしてみると、日蓮聖人を
旅人として捉え直す事など、とても不謹慎な事だと思えてしまいます。
 
それほど、自分は日蓮宗という一宗派に偏った物の見方をするようになってしまったという事でしょう。
なにしろ、我々は日蓮大聖人と尊称して憚らないのです。
自分の書く文章の中で日蓮・日蓮と呼び捨てにする事など考えられませんが、
 
戦争で、死と直面した経歴を持つ紀野先生にしてみれば、旅とは死を覚悟の行程を指すのでしょう。
 
我々の時刻表どおりの呑気な旅行感覚とはまったく異次元の感覚。
それが、紀野先生の旅に対する実感。
 
そういう意味で紀野先生は日蓮聖人と同じ視点で旅を見つめ直す事が出来るのです。

そういった親近感から日蓮聖人とか大聖人とか大上人などと書き表す事があえて煩わしく感じたのでしょうか。
 
「すなわち日蓮は、ふるさとである安房東条郷を逐われた時から、池上の地で息を引き取るまで、常に旅にあったといっていいのである。人は定着すると、安心し、油断し、戦闘的能力を失い、夢を失い、現実主義、日和見主義、妥協主義に堕する。
日蓮にはそれがなかった。それは、日蓮が常に旅にあったからである。
そしてまた、喪失した故郷に対して烈しい思慕の念を抱いていたからである。
わたしは、芸術家や宗教者は、故郷を喪失した者ほどその生命が長いと思っている。
日蓮が故郷を逐われたことは、かえって日蓮に幸いしたのではあるまいか。」
 
故郷広島を原爆で一瞬にして失い、寺の息子という立場も捨て一宗一派に縛られぬ生き方を選ばれた先生。
学者として、求道者として日本の仏教すべてに目を行き届かせていく姿勢の原点がこの文章でした。
もう亡くなられてまる三年の月日が流れてしまいましたが、先生の精神はこの文章の中に生き続けていると思います。
 

2016/01/15 13:15 | 仏教全般お経の解説など | コメント(0)

2016年01月03日(日)

「小田原七福神」三が日の参拝は天気に恵まれた。宝船号は3日より6日まで

今朝は箱根駅伝復路である。
同じ大学生とはいえ先頭と最後尾では随分と差が出てしまうものだ。
長距離ランナーというものは孤独なものだが
沿線の声援がまことに力となるものだろう。

七福神のお参りは元旦から賑やかで
今日は日曜日という事もあって、グループが多かった。
ガイド協会の案内で75名ほどが10組に分かれて歩いていた。

宝船号のバスツアーは午前、午後共に賑やかで
私は朱印帳の染筆に追われた。

福聚海無量という言葉が観音経にあるが
まことに仏様の慈悲というものは溢れる海水のように
尽きることなく、私たちに注がれている。
今日も無事終えた事を感謝しましょう。 

2016/01/03 15:10 | 仏教全般お経の解説など | コメント(0)

2015年04月05日(日)

生まれ変わりを信じているわけではないが、勝五郎再生記聞

 明治時代にかなり有名な話だった、勝五郎の生まれ変わりの話。
実話だったというのが、驚きでしたが、
程久保小僧の生きた場所は
同じ関東でも意外に近い
八王子と日野でした。

小田急線と多摩モノレールで行ってきました。



2015/04/05 13:15 | 仏教全般お経の解説など | コメント(0) | トラックバック(5)

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2015年03月17日(火)

春彼岸法要のお知らせ

春のお彼岸は3月18日から24日までの一週間です。
今年は3月21日(土)がお彼岸の中日にあたります。
昼夜の長さが同じというところから
片寄らない、中庸の心で励みましょうという意味で
この一週間、心の修行をして過ごそうという事です。

蓮船寺では21日の午後1時半より
読誦会(どくじゅえ)を行います。
法華経を一緒に読み、お題目を太鼓にあわせて
お唱えします。
最近はお檀家さんのお経が上達して
声も大きくなり、賑やかです。
どうぞお参り下さい。

墓地の白木蓮も満開です。








2015/03/17 09:55 | 仏教全般お経の解説など | コメント(1) | トラックバック(0)

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2014年10月22日(水)

止観(数息観)

止観(しかん)とは自分の内なる世界を観ることであります。

お経を唱える時の準備段階に入る方法論として説かれているものです。
 
日々のお勤めの際に 
座るときに有効な 
止観の基本をここで具体的に解説してみましょう。 
 
浄心行(深心行) 
静座の仕方の説明と息の出し入れについて 
 
正身端座(しょうしんたんざ) 
 
まず座り方の説明です。 
 
正座の基本型 
 
足の親指をそろえ、尻をおちつけ 
両方の膝をにぎりこぶし二つぶんくらい開いて 
下腹を前に出すようにして、 
腰をたてて、背筋をのばし頭をまっすぐにして 
あごをひき、 
後頭部で天井をつきあげるようなイメージをもちます。 
 
両方の手を前にたれ、右の手のひらに左手をのせ、 
両方のおや指のあたまが 
つきあうようにし、 
ちょうど珠を置いたようにして膝の上にのせます。 
 
視線は一㍍ほど前におとすようにして、半眼にします。 
 
ぎゅうーっと 
目をつぶるのではなく 
薄目をあいている状態 
 
肩の力をぬいて腕、手首、指先までも力をぬいてゆったりとなり、 
全身の 
中心を下腹と腰において端然と座ります。 
 
調息数息観(ちょうそくすそくかん) 
 
座り方ができたら、次ぎに息をととのえます。 
 
まず息を静かに、細く長く全部吐きます。 
これ以上出せなくなったところでひと息止め、 
こんどはゆっくりと静かに息を吸います。 
 
目の前にうす紙がさがっていてもゆれないくらい 
静かに息の出し入れをするイメージです。 
 
息を吐く時に心の中で「ひとー」とかぞえ 
すうとき「つぅー」と言います。 
 
つまり息の往復で「ひとーつぅー」「ふたーつぅー」「みっーつぅー」とかぞえるのです。 
 
とかく雑念にとらわれがちな私たちの心を 
数の上にのせることに集中します。 
 
静寂の中、呼吸を整え、大きく息を吸って吐き、 
その自分の息を数える事を数息観(すそくかん)といいます。 
 
初学の者は息を数えることに 
集中することから始めましょうという観法です。 
 
雑念を払い座るという事は 
仏教の精神修養であることはもとより、 
心身の健康にもつながる意義があります。 
 
ひいては、とらわれない、かたよらない心、 
心を落ち着かせ 
物事を別の角度からみることができたりもするでしょう。 
 
このような落ち着いた心になって、 
はじめてお題目を唱える準備が出来たといえます。

2014/10/22 21:03 | 仏教全般お経の解説など | コメント(0) | トラックバック(0)

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