2014年10月17日(金)

お説法のレジメ?物語「身延ご入山の真実」

 日蓮聖人さまのご生涯で、最も辛い時期であったのが、文永八年から十一年までの三年間に及ぶ佐渡での流罪の日々でありました。その苦難を乗り越え、鎌倉に呼び戻された日蓮さまへの幕府の態度は丁重に蒙古襲来の時期を尋ねるなど意外なものでした。文永九年(一二七二)二月、執権時宗の異母兄北条時輔(ときすけ)が京で謀叛を起こし、かつて建白された立正安國論の予言が適中した為でしょう。
幕府の申し出とは、
「聖人所立の法門は世間これを喜ばず、今よりこれを止め給はば、聖人の為に新たに城西に愛染堂を建て、荘田一千町を寄進して天下安全の祈祷を願はん」
鎮護国家の祈祷を願い出るというもので、いわば幕府のお召し抱え僧としての懐柔策ともいえるものでした。
これに対して日蓮さまのお考えは、幕府は依然として邪宗に惑わされている。國をあげて改宗しない限り、幕府の恩沢を受けて一身の富裕を図るのはもっての沙汰である。
「わが所立の法門は仏勅に依る。日蓮貧なりといえども、豈に千町歩を得て仏勅に背かんや。」さらに、
「三度国を諫めて用いられずば、山林に交わるべし」という古の賢人聖人のならいに従って身延山へと入られたのです。 世俗的な名誉や目先の利害に動かぬ信念を貫かれ、仏道修行、次世代への伝法を目指されたものと想像されます。 
現代風に捉え直すならば、あえて山深い身延を選んだというのも、鎌倉にいたのでは蒙古の軍によって滅ぼされてしまう。山奥で弟子たちを育て、時を待ち、次世代の活躍によって日本に法華経を中心とする仏国土を建設する事を願ったのでしょう。

「その後身延山へ分け入って山中に居し、法華経を昼夜読誦し奉り候らえば、三世の諸仏、十方の諸仏、菩薩も此のみぎりにおはすらん。釈迦佛は霊山に居して八カ年、法華経を説き給う。日蓮は身延山に居して九カ年の読誦なり。我がこの山は天竺霊山にも勝れ、日域の比叡山にも勝れたり。然れば吹く風も、ゆるぐ木草も、流るる水の音までも、この山には妙法の五字を唱えずと言うことなし。日蓮が弟子檀那等はこの山を本として参るべし。是則霊山の契り也」
奥の院より身延富士川遠景奥の院より身延富士川遠景

2014/10/17 22:12 | 仏教全般お経の解説など | コメント(0) | トラックバック(147)

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