2020年05月27日(水)

先祖を訪ねて③

伝記からうかがえる先祖のガリ勉
 
『日東宗教家実伝』を
くわしく読み解いていこう。
 
『将に失墜せんとする 
佛光を惹き起こして
之を九天の高に燦然たらしめたる所の
近藤日遊師は
尾州海東郡津島村の産なり。』
 
なんとも大時代的な形容から
文章がはじまった。
尾州は尾張
海東郡
津島村。
平成24年3月27日から何度か調査に行ってきた。
愛知県津島市のことである。
 
『八歳の時剃髪して
名古屋 法華寺の日経上人に就て学び、
日夜筆硯に心魂を尽くす。
後ち合掌院日敬上人に従う。 
 
十四歳の時 遠く故郷を去って
下総に出て中村檀林 千葉県多古町
(正東山 日本寺にあった僧侶の教育機関)
に入って業を修め、
 
後に二十二人の中より撰ばれて之が玄頭となり
法華玄義を講するに音聲爽爽として
条理殊に明晰たれば
四座の群衆驚嘆せざる事無し。』
 
八歳で剃髪という事は一体何を意味しているのであろうか。
実はこの子は尾張徳川家の上級武士の
妾腹の子だと我が家には伝承している。
 
名古屋市東区東桜に
法華寺というお寺があり
そちらのお寺の歴代に
第23世に竜妙院日経上人
第24世に合掌院日敬上人がおられる。
 
このお寺で剃髪して
お小僧さんとして
修行をし始めた事は間違いない。
 
それにしても
驚いたのは14歳で
千葉県の中村檀林に入学していることである。
 
当時檀林というのは
宗門の学問所
 
現代でいえば、いわゆる大学に相当する
かなり難易度の高い
とても難しい学問をするところである。
 
主に修学するのは
天台学
「西谷名目」
「天台四教儀」
「四教儀集解」
「観心部」
「天台三大部」
中身はすべて漢文
ひらがなは一つも出てこないしろもの。
題名を見るだけで頭が痛くなってくるような
すごい難解な内容である。
 
しかも、入学にかかる費用が高く。先祖伝来の田んぼを売って入学させたという。
一般庶民には到底望むべくもない学校なのだ。
 
そういう所に14歳で入学するとは。
 
法華寺は相当裕福な寺で
しかも、お師匠さんたちに
随分と見込まれて
留学させてもらったという事だろう。
 
さらに驚いたのは
偶然以前、参加した
中山法華経寺の研修会で頂いた資料に
中村檀林のものがあり、
「慧雲院日圓聖人と中村檀林」
 
私の先祖
近藤鳳音日遊が
ちゃんと名簿に載っていたのである!
 
文久三年(1863)35歳の時に
前期が四老職
後期は板頭職を拝命しているのだ。
 
「のちに二十二人の中から選ばれてうんぬん」
の下りは
あながち誇張した表現でもない事がわかった。
 
板頭とは学校の教頭先生のような立場であり
 
「法華玄義」を講義したという事は
大学教授なみの知識があるという事。
 
私の先祖は大変なインテリだった。
それに引き替え、わが身をかえりみると???
 
なんともお恥ずかしい限りである。

2020/05/27 20:54 | 歴史探訪 | コメント(0)

2020年05月27日(水)

先祖を訪ねて②

千葉県香取郡多古町 日本寺千葉県香取郡多古町 日本寺

先祖の伝記が出版されていた
「日東宗教家実伝」
 
ー北海道で見つけた書物ー
 
北海道での布教のさきがけであった
近藤鳳音(日遊)について知る事が出来る
唯一の書物があります。
 
これは私の母が五十年ほど前に
北海道の富良野の寺で偶然手にし、
便箋に筆写して手元に保管してきたもので
 
「日東宗教家實傳」(上下)一冊の和綴じの書物です。
 
以下はそれから近藤鳳音(日遊)についての部分を抜粋したもの。
 
『将(まさ)に失墜(しっつい)せんとする 
佛光(ぶっこう)を惹(ひ)き起(お)こして
之(これ)を九天(くてん)の高(たかみ)に
燦然(さんぜん)たらしめたる所(ところ)の
近藤日遊師(こんどうにちゆうし)は
尾州海東郡津島村(びしゅうかいとうぐんつしまむら)の産(さん)なり。
 
八歳(はっさい)の時(とき)剃髪(ていはつ)して
名古屋 法華寺の日経上人に就(つい)て学び、
日夜筆硯に心魂を尽くす。
後ち合掌院日敬上人に従う。 
 
十四歳の時(天保年間) 
遠く故郷を去って下総(しもうさ)に出て
中村檀林(なかむらだんりん)に入って業を修め、
後に(文久の頃)二十二人の中より撰ばれて
之が玄頭となり
法華玄義(ほっけげんぎ)を講するに
音聲爽爽として
条理殊に明晰たれば
四座の群衆驚嘆せざる事無し。
 
二十二歳の時 
加賀 立像寺 十洽園(じゅうごうえん) 
優陀那日輝上人(うだなにちきしょうにん)の鎚下に帰する
茲に年あり 
 
二十六歳の時 
名 津島村妙延寺の住職となり
 
三十三歳 下総 中山 法華経寺に於いて
百二十日の水行を遂げ
開祖以来の祈祷法を悉く伝授せらる。
 
後ち東京に出て
宗務局の会計をつかさどり
整理の功 すくなからず
 
明治十七年 牧口 徳太郎なるもの
北海道より師に請うに
小樽の某寺に住職たらんことを以てす
 
師 その請を空しふするに忍びず
海を渡り往て見れば 
豈図らん 大債千余圓ありて
寺院の廃損言うべからず
 
是において節倹 身を約し
心を布教に尽くし
寝食を忘れて功を積むこと数年 
遂に其 結果に因って
大債悉く返却したるのみか
壮麗たる寺院を修築せり 
けだし 師 
慈心深く言語諄々と
懇篤を極むれは檀徒
日に其の多きを加ふるのみならず 
縷々 区長および開拓使より
貧民救助 道路修繕の賞状を賜りぬ
 
かの村雲殿下の
北海道 御親教の際 
之を祝するに和歌を以てす 
其の和歌にいはく
 
『あなうれし 八千草深き 夷地の 
空にたなびく 紫の雲』
 
(参考資料)
出家得度のお寺 
名古屋市東区東桜2―16―29
法華寺
歴代 
第23世 竜妙院日経 嘉永3年(1850)8月
第24世 合掌院日敬   同年    12月 

2020/05/27 05:59 | 歴史探訪 | コメント(0)

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