お寺の縁起について(2)

蓮船寺の伝承

 天正18年(1590)七月に小田原北条氏が滅び、家老職の井出氏は
北条家五代当主氏直と、その叔父にあたる氏規と共に捕虜の身となりましたが、
豊臣秀吉に主君一族の命乞いをします。
五代当主氏直の舅にあたる徳川家康の計らいもあり、
氏直は高野山で出家。後に病死したそうです。
北条氏規は大阪に居場所を与えられ、秀吉の家来から家康の家来へと忠義に勤め上げ、
氏規の孫にあたる氏信の代には後の河内狭山藩初代藩主となり、
徳川政権の大名の一員に加えられます。
 
井出氏は治水土木などの技術をもっていた人々で
民政が専門ですから、北条五代記などにも
華々しい武勇伝は一切伝わっていません。
しかし、家老職の井出氏らの政治力で主君北条氏一門は断絶することなく
江戸時代を逞しく生き抜いていったのです。
 
井出氏、朝比奈氏、船越氏の三人の家老は
小田原以来の忠義の家老職として河内狭山北条家を支えました。
小田原の人々は主人を失いましたが、
その家老井出氏の板橋の下屋敷は寺院であった為残りました。
これが蓮船寺です。ここで開山となっていたのが蓮行院日船上人です。
 
以上が寺の創設にまつわるお話ですが、
ここで登場する開山の蓮行院日船上人について、
筆者は多くの第一級資料に恵まれる事ができました。

師匠の七条古袈裟の奉納

 天正18年10月10日に、蓮行院日船上人が
その師匠である日体上人の古袈裟を
おそらく小田原の戦乱の後に買い求め、
新たに縫い綴り修復したものを持参し、
師恩に報ずるため日蓮宗の由緒深い、
鎌倉比企谷(ひきがやつ)妙本寺に奉納したことが、
現在七条袈裟奉納裏書きとしてつたえられています。
その全文は次のとおりです。
 
資料
七条袈裟奉納裏書き(比企谷妙本寺蔵)
 
 
 
奉納七条之袈裟  長興山妙本寺常住
 
南無平等大恵教菩薩法佛所護念
 
 右此七条者相州小田原之内惺雄山
 
 蓮船寺開闢之師蓮行院日船
 
 師範日体之古袈裟於乱後に
 
 買求過半除破損之絹新縫綴
 
 此師孝之志於後代に令伝持
 
 者也仍令法久住荘厳如斯
 
  天正十八稔庚寅十月十日      日惺(花押)
 
読み下し文
 
  右此の七条は相州小田原の内、惺雄山
 
  蓮船寺開闢の師蓮行院日船
 
  師範日体の古袈裟を乱後に於いて
 
  買い求め、過半の破損の絹を除き、新たに縫い綴る
 
  此の師孝の志、後代において伝持せしむる
 
  ものなり、よって令法久住荘厳かくのごとし

お寺の開創年代について

 妙本寺の古袈裟の奉納裏書きによって明らかなように、
天正18年(1590)には惺雄山蓮船寺として
お寺があった事が確証されております。
 
しかし、後世江戸時代に鎌倉の本山に提出された「寺院書き上げ」には
永正2年(1505)二月開創と書かれており
 
八十年も時代がずれており
日船上人活躍年代ともずれてしまいます。
それは日船上人の没年が寛永2年(1625)であるからです。
 
「寺院書き上げ」は誤記の疑いが強いです。
 
あるいは逆算して出てくる
永禄8年か、開基井出内匠正の没年天正8年が正しい開創ではないでしょうか。
 
永禄8年が開創であったならば
井出氏は小田原の板橋の下屋敷の中に
堂宇を自ら建立し、一族の菩提を弔っていたのではないでしょうか。
治水工事(井戸掘り)を専門にしていたといわれる井出氏の周辺では、
工事中に不幸にして事故の犠牲となった人がいたのではないかと想像されるからです。
 
 
蓮船寺過去帳には、当寺の開基檀越は駿河の豪族井出一族の出身で
小田原北条氏に仕えた井出内匠正(いでたくみのしょう)(天正八年八月没)とされ、
その内室と思われる本如院清日随(慶長十年十二月没)の項にも「当寺開基檀那」とあります。
 
井出氏は旧来日蓮宗を信仰していた家柄であり、内室が夫君の没後、
天正8年以降に日船聖人を開山に迎え
夫君の菩提のために建立した寺と考えたほうが自然な流れです。 
天正18年の小田原の戦乱の後、主君北条氏も井出氏も関西に移り住み、
お寺は外護の檀家を失ったこととなります。
 
しかし、「寺院書き上げ」の棟札の項に
 
両山16世日樹聖人の署名により
 
寛永五戊辰二月二十八日客殿五間半七間半妙運坊日周授与之トアリ
 
の一行が出てくるところが重要です。
 
寛永5年頃には河内狭山で安住した開基井出氏が
生活の余裕も出来て相当な寄進を行い
この時はじめて本格的なお寺に改装されたものと思われます。