[1]   2   3   4   5   >>   [最後]
2020年05月28日(木)

先祖を訪ねて⑤

明治十七年、近藤鳳音が北海道に着任した当時
北海道には明治新政府に対する
不満を持った人々が新天地を求めて
殺到しておりました。
 
侍の大半が浪人をして職を求めていたのです。
当然のことですが、色々な揉め事で
警察沙汰になる事も多かったようです。
 
警察官、軍人には薩摩長州など
官軍側から士官した者が多く
旧幕臣だった人々はあぶれていたので
喧嘩でもめれば、牢屋に入れられて
許されて外に出ればまた喧嘩沙汰という
繰り返しだったようです。
 
近藤鳳音は教戒活動の為、みずから監獄の中に
入り、人々の不平、不満の聞き役に
まわりました。
昼間強制労働を行っていた受刑者の待遇を改善するために
役人たちに文書で抗議をしたりして
牢内の人々の信頼を得ました。
 
築港工事や道路拡張などの大きな仕事を
囚人たちがこなしていき
小樽の監獄は道内一優秀という噂が
広まりました。
監獄の中でも騒動を起こす者がいなくなり
皆借りてきた猫のように大人しくなり
統率が取れている理由を
刑務官たちも調査に乗り出し
 
その理由が近藤鳳音の教戒布教のお蔭で
あると知れると
北海道の知事に当たる開拓使から
感謝状を贈られたりしました。
 
近藤鳳音自らは質素倹約に努め、お寺の借金を
返済し、お堂の内外を修繕し仏具は新調し
お堂をピカピカに荘厳しました。
 
境内地に湯治場を作り、皆の健康維持に
心がけ、新たに寺の檀家になる人が
数年の間に二百世帯を超えました。

2020/05/28 22:33 | 歴史探訪 | コメント(0)

2020年05月28日(木)

先祖を訪ねて④

伝記後半のドラマチックな展開
 
『二十二歳の時 
加賀 立像寺 十洽園 
優陀那日輝上人の鎚下に帰する
茲に年あり
 
二十六歳の時 
名 津島村妙延寺の住職となり
 
三十三歳 下総 中山 法華経寺に於いて
百二十日の水行を遂げ
開祖以来の祈祷法を悉く伝授せらる。』
 
 
22歳で加賀 金沢の立像寺に開かれていた
充洽園の学問所で勉学に励んだとは。
 
この充洽園には全国の法華宗門から
俊英とよばれる学僧が参集し
のちの日蓮宗統合への
基礎をつくる重鎮たちが育ったといいます。
 
まさに僧侶としてのエリートまっしぐら
 
26歳で故郷津島の寺の住職に就任し
 
33歳には千葉 市川にある中山法華経寺
遠壽院で荒行を修める。
当時は百二十日の寒修行だったそうです。
学問だけではなく、自身の信仰を深めるため
厳しい修行に励んだのです。
 
『後ち東京に出て
宗務局の会計をつかさどり
整理の功 すくなからず』
 
明治十七年 
牧口 徳太郎なるもの
北海道より師に請うに
小樽の某寺に住職たらんことを以てす 
師 その請を空しふするに忍びず
海を渡り往て見れば 
豈図らん 大債千余圓ありて
寺院の廃損言うべからず
 
是において節倹 身を約し
心を布教に尽くし
寝食を忘れて功を積むこと数年 
遂に其 結果に因って
大債悉く返却したるのみか
壮麗たる寺院を修築せり 
 
けだし 師 慈心深く
言語諄々と懇篤を極むれは
檀徒日に其の多きを加ふるのみならず 
縷々 区長および開拓使より
貧民救助 道路修繕の賞状を賜りぬ
 
かの村雲殿下の北海道 御親教の際 
之を祝するに和歌を以てす 
其の和歌にいはく
 
あなうれし 八千草深き 夷地の 
空にたなびく 紫の雲』
 
以上で伝記終わり。
 
~後ち東京に出て
宗務局の会計をつかさどり
整理の功 すくなからず~
 
実は、日蓮宗という宗門を
一本化したのは当時
新居日薩という傑物の活躍が
あっての事なのですが、
 
22歳の頃、金沢の充洽園の学問所で勉学
していた時に新居日薩和尚と
面識を得ていたそうで
私の先祖はこの日薩和尚の
片腕となり、会計事務なども
お手伝いさせて頂いたのです。
 
26歳で尾張津島のお寺の住職となりましたが、
 
住職就任の挨拶に総本山
身延山に参詣した帰途に
東南海大地震に遭遇し
命からがら津島の寺へ
戻りました。
客殿庫裏が全壊し
傾いた本堂で雨露をしのぐ有様。
3年間復興に尽くしたものの
主たる檀家も全滅でお寺は立ちいかず、
津島を三年で出て
火事で全焼した名古屋法華寺の復興を
手伝ったそうです。
法華寺は8歳から14歳まで暮らした
実家のような存在のお寺だったのです。
 
しかし、見ている人はちゃんと見てくれていて
住職を補佐して本堂建設に尽力する姿に
見込まれて紀州和歌山の大坊に
住職として迎えられました。
 
紀州大坊 蓮心寺の第29世として。
 
伝記ではこの慶事が省略されていました。
それもその筈、わずか一年で寺を出てしまったのです。
理由はわかりません。
 
東京に戻り、宗務局となった
大教院の仕事を続けていたようです。
 
明治15年頃に北海道から住職派遣の陳情に
小樽の牧口氏が上京したものと思われ、
明治十七年5月には 
北海道での筆舌に尽くせぬ
苦労が始まるのであります。
 
(資料)
蓮心寺
昭和20年7月9日
戦災で紀州大坊と呼ばれた
大伽藍焼失
 
 
 
 
 
 
 
 

2020/05/28 15:16 | 歴史探訪 | コメント(0)

2020年05月27日(水)

先祖を訪ねて③

伝記からうかがえる先祖のガリ勉
 
『日東宗教家実伝』を
くわしく読み解いていこう。
 
『将に失墜せんとする 
佛光を惹き起こして
之を九天の高に燦然たらしめたる所の
近藤日遊師は
尾州海東郡津島村の産なり。』
 
なんとも大時代的な形容から
文章がはじまった。
尾州は尾張
海東郡
津島村。
平成24年3月27日から何度か調査に行ってきた。
愛知県津島市のことである。
 
『八歳の時剃髪して
名古屋 法華寺の日経上人に就て学び、
日夜筆硯に心魂を尽くす。
後ち合掌院日敬上人に従う。 
 
十四歳の時 遠く故郷を去って
下総に出て中村檀林 千葉県多古町
(正東山 日本寺にあった僧侶の教育機関)
に入って業を修め、
 
後に二十二人の中より撰ばれて之が玄頭となり
法華玄義を講するに音聲爽爽として
条理殊に明晰たれば
四座の群衆驚嘆せざる事無し。』
 
八歳で剃髪という事は一体何を意味しているのであろうか。
実はこの子は尾張徳川家の上級武士の
妾腹の子だと我が家には伝承している。
 
名古屋市東区東桜に
法華寺というお寺があり
そちらのお寺の歴代に
第23世に竜妙院日経上人
第24世に合掌院日敬上人がおられる。
 
このお寺で剃髪して
お小僧さんとして
修行をし始めた事は間違いない。
 
それにしても
驚いたのは14歳で
千葉県の中村檀林に入学していることである。
 
当時檀林というのは
宗門の学問所
 
現代でいえば、いわゆる大学に相当する
かなり難易度の高い
とても難しい学問をするところである。
 
主に修学するのは
天台学
「西谷名目」
「天台四教儀」
「四教儀集解」
「観心部」
「天台三大部」
中身はすべて漢文
ひらがなは一つも出てこないしろもの。
題名を見るだけで頭が痛くなってくるような
すごい難解な内容である。
 
しかも、入学にかかる費用が高く。先祖伝来の田んぼを売って入学させたという。
一般庶民には到底望むべくもない学校なのだ。
 
そういう所に14歳で入学するとは。
 
法華寺は相当裕福な寺で
しかも、お師匠さんたちに
随分と見込まれて
留学させてもらったという事だろう。
 
さらに驚いたのは
偶然以前、参加した
中山法華経寺の研修会で頂いた資料に
中村檀林のものがあり、
「慧雲院日圓聖人と中村檀林」
 
私の先祖
近藤鳳音日遊が
ちゃんと名簿に載っていたのである!
 
文久三年(1863)35歳の時に
前期が四老職
後期は板頭職を拝命しているのだ。
 
「のちに二十二人の中から選ばれてうんぬん」
の下りは
あながち誇張した表現でもない事がわかった。
 
板頭とは学校の教頭先生のような立場であり
 
「法華玄義」を講義したという事は
大学教授なみの知識があるという事。
 
私の先祖は大変なインテリだった。
それに引き替え、わが身をかえりみると???
 
なんともお恥ずかしい限りである。

2020/05/27 20:54 | 歴史探訪 | コメント(0)

2020年05月27日(水)

先祖を訪ねて②

千葉県香取郡多古町 日本寺千葉県香取郡多古町 日本寺

先祖の伝記が出版されていた
「日東宗教家実伝」
 
ー北海道で見つけた書物ー
 
北海道での布教のさきがけであった
近藤鳳音(日遊)について知る事が出来る
唯一の書物があります。
 
これは私の母が五十年ほど前に
北海道の富良野の寺で偶然手にし、
便箋に筆写して手元に保管してきたもので
 
「日東宗教家實傳」(上下)一冊の和綴じの書物です。
 
以下はそれから近藤鳳音(日遊)についての部分を抜粋したもの。
 
『将(まさ)に失墜(しっつい)せんとする 
佛光(ぶっこう)を惹(ひ)き起(お)こして
之(これ)を九天(くてん)の高(たかみ)に
燦然(さんぜん)たらしめたる所(ところ)の
近藤日遊師(こんどうにちゆうし)は
尾州海東郡津島村(びしゅうかいとうぐんつしまむら)の産(さん)なり。
 
八歳(はっさい)の時(とき)剃髪(ていはつ)して
名古屋 法華寺の日経上人に就(つい)て学び、
日夜筆硯に心魂を尽くす。
後ち合掌院日敬上人に従う。 
 
十四歳の時(天保年間) 
遠く故郷を去って下総(しもうさ)に出て
中村檀林(なかむらだんりん)に入って業を修め、
後に(文久の頃)二十二人の中より撰ばれて
之が玄頭となり
法華玄義(ほっけげんぎ)を講するに
音聲爽爽として
条理殊に明晰たれば
四座の群衆驚嘆せざる事無し。
 
二十二歳の時 
加賀 立像寺 十洽園(じゅうごうえん) 
優陀那日輝上人(うだなにちきしょうにん)の鎚下に帰する
茲に年あり 
 
二十六歳の時 
名 津島村妙延寺の住職となり
 
三十三歳 下総 中山 法華経寺に於いて
百二十日の水行を遂げ
開祖以来の祈祷法を悉く伝授せらる。
 
後ち東京に出て
宗務局の会計をつかさどり
整理の功 すくなからず
 
明治十七年 牧口 徳太郎なるもの
北海道より師に請うに
小樽の某寺に住職たらんことを以てす
 
師 その請を空しふするに忍びず
海を渡り往て見れば 
豈図らん 大債千余圓ありて
寺院の廃損言うべからず
 
是において節倹 身を約し
心を布教に尽くし
寝食を忘れて功を積むこと数年 
遂に其 結果に因って
大債悉く返却したるのみか
壮麗たる寺院を修築せり 
けだし 師 
慈心深く言語諄々と
懇篤を極むれは檀徒
日に其の多きを加ふるのみならず 
縷々 区長および開拓使より
貧民救助 道路修繕の賞状を賜りぬ
 
かの村雲殿下の
北海道 御親教の際 
之を祝するに和歌を以てす 
其の和歌にいはく
 
『あなうれし 八千草深き 夷地の 
空にたなびく 紫の雲』
 
(参考資料)
出家得度のお寺 
名古屋市東区東桜2―16―29
法華寺
歴代 
第23世 竜妙院日経 嘉永3年(1850)8月
第24世 合掌院日敬   同年    12月 

2020/05/27 05:59 | 歴史探訪 | コメント(0)

2020年05月26日(火)

幕末から明治を生きた先祖をたずねて。

テレビ番組に「ファミリー・ヒストリー」というのがありますが、

私の家は母方の先祖をたどると
自分を含めて五代続いた僧侶の家系です。
幕末は僧侶の結婚は正式には認められていない。
 
明治維新の後に
「太政官令」という法律によって
僧侶の結婚や肉を食べる事、
髪の毛を伸ばす自由などが認められたのです。
 
それまでのお寺にも
当然ながら
女性の働き手がいました。
 
「おだいこくさん」
「おくりさま」
などの隠語で呼ばれていたが
住職と密かに契っている者もありました。
 
当然、内縁関係です。
 
私の生臭さ坊主は五代続いた
先祖から受け継いだものでありましょう。
 
しかし、先祖が破戒僧だったおかげで
 
今現在の私が存在するのも
事実なのです。
 
「事実は小説よりも奇なり」
 
曾祖父の父(高祖)である近藤鳳音(日遊)と
曾祖父の堀田春鏡(日浄)は北海道の小樽の寺に
第二世、第三世として一緒に眠っています。
 
共に北海道開拓の初期に現地に渡り
北海道での布教の基礎を築いた人々です。
 
色々な巡り合わせで
先祖の生まれ故郷が愛知県津島市である事を知り、
平成24年3月27日に初めて訪れ以後数回訪問しました。
 
川や森、神社仏閣など先祖が眺めたであろう景色を見つめ、
その風土を身近に感じてみました。
 
さて、せっかく現地調査をするのだから
手元の資料をよく研究して
事前準備をしておきましょう。
 
「過去帳から読み取れること」
 
曾祖父の父近藤鳳音(日遊)と
曾祖父堀田春鏡(日浄)の事から探ってみます。
 
曾祖父堀田春鏡(日浄)は過去帳によれば、
明治三十五年に三十八歳で亡くなっています。
 
その父である鳳音(日遊)はその五年後
明治四十年に七十九歳で亡くなっています。
 
息子が父より五年ほど早く先立ったという事です。
 
鳳音(日遊)は七十四歳の時に息子を失い、
小樽の大火は明治三十九年ですから、
亡くなる前年に全ての財産を火事で失った事になります。
 
失意の中老いて死んでいったであろう
近藤鳳音(日遊)の生涯を
今ここで子孫につたわる伝承としてわかっている範囲も含め、書き留めてみましょう。
 
次回は「先祖の伝記が出版されていた!」
に続く。
 

2020/05/26 12:14 | 歴史探訪 | コメント(0)

[1]   2   3   4   5   >>   [最後]

RSS